昭和51年10月25日 朝の御理解
御理解 第26節
「信心に連れはいらぬ。ひとり信心せよ。信心に連れがいれば、死ぬるにも連れがいろうが。みな、逃げておるぞ。日に日に生きるが信心なり。」
昨日ちょうど研修のちょっと前でしたが。大分の森のあの武田先生。武田先生ですね女の先生女のお医者さんです。もうお年もお婆さんですがお参りされて、自分も研修の中に入いって、ご自分もいろいろ発表をされました。今度東京で学会があってあちらへ参りました。先日からお参りして来た時に、親先生が大変素晴らしい硯のお供えがあったということを承っておりましたので、銀座の鳩居堂と言う大変有名な、文房具の店がございますね。もうそれこそ安いものなんか絶対ないという。
もう墨一本でも何万円より下のはないと言った様なお店なんです。銀座へ行った方は知って私共は行った時に、鳩居堂の前を通りましたから、素晴らしいものが出ておりますから、一寸見せてもらったけれども、とてもとても私共が手が出るようなものは出ていないと言う様なお店です。鳩居堂へ参りましてから、あのうあの素晴らしいと言われる硯にふさわしい墨をと、思うて居りましたからあのう買わして頂きましたから、と言うて昨日こんな風にしてお供えになった。
もう私は開けて見てから、ほう墨もこんな墨があるだろうかと思う事は、あのう白壇の香りがするんですね。それはあのう例えばあのこう巻紙に書きますとね、その字から字をあのう封筒を切ってこう出すと、その白壇の香りがする墨だそうですね。まぁそういうことで昨日お参りになってから、「先生私はこちらにお参りをさせて頂くようになって、本当にもうそれは不思議な事ばっかりがあります」とこう言われます。「第一私はお参りさせて頂くようになって体質改善ができた」と。お医者さんですよ。
先生はその牛乳を毎日飲まれるけれども、必ず二本も飲むと下痢をなさる。それが不思議な事に、この頃三本づつ頂きますが全然下痢がない致しませんから、今日はするかもしれん今日はあるかも知れんと思って、もう五十四日続きました、全然下痢がないのが。私はお参りさせて頂いておるうちに、いつの間にか私の体質改善が出来ておるとに、気付かして頂いて有り難いと思いますと言う訳です。
先日からお客様がありましたから、宝泉寺にご案内をした。どこの旅館もホテルも一杯で良い店がなかったから、最後に宝という屋号の店に入らせて頂いたら、そこもなかった。けれどもそこに居間なら空いとると言うので、そこでいいですよと。それはもう最高に立派なそこのご主人の居間ですからね。行ってから驚きました事には、もうそこに麗々しく金光様がお祭りしてあった。もう私は本当に感動致しました。
それで昨日はもう長年、私の方は汚なぁい病院ですけれども、なかなかその気にも成れませんでしたけれども、この頃から不思議なおかげを頂いて、まぁ金銭の上にも思いがけないお繰り合わせを頂いておりますので、普請を親先生にお願いをして始めたいと思いますが、どうでしょうかとこういうのである。「それはならお繰り合わせをお願い致しましょう」と。「それで私はその宝というホテルに参りました時に、私の居間にこれと同じお神様を奉斎させて頂きたいと心に決めました。
それで大工に宝泉寺の何々ホテルにやって、その奉斎様式があんまり素晴らしかったから、それを見てその通りに建てさせたいと思います」と言う様な、まぁそのう研修の中ででそういう発表をなさいました。昨日これはちょうど上野先生がお取次ぎをさせて頂いておる。日田の奥の方に大山というところがある。そこからそこにまぁ教会があるそうですけど、そこの総代を長年しておられてどうでもおかげを頂かない。家族のものも勿論付いて来ん。奥さんなんかは真っ向から反対。
奥さんは体が弱くて病気だから病気も持っておるし、いろいろな難儀な問題がいくらもありますから、お参りしてくれると良いけれどもお参りしない。ところが偶々こちらに仕入れかなんかに見えました時にね、ここに寄らせて頂いたのが初めてで、仕入れに来る度にお参りをして、この頃壮年大会の時に初めて、まぁここの信者として参加させて貰った。あんまり素晴らしかったからその素晴らしい話を家内にさせて頂きました。そしたらそんなところなら私もお参りしようかと言うて、この頃婦人大会に参加した。
もうそれからこっちというものは、家内の変わり方にはもう驚いております。もう働きます事働きます事。もう第一こちらにお参りするようになって、丁度ス-パ-マ-ケットのようなお店をなさっておられるそうです。もうこれははっきり線を引いたように忙がしなった事です。もう最近の配達は私は夜させてもらわんならんと、何んか果物を食料品から進物品のようなものまで、いわゆる出しておられるそうです。
ですからもう配達は夜だけにさせて頂いております。と言う様に商売はもう大繁盛のおかげを頂き、家内はそのう本当に二人見るように働くようになり、実は今日も裏になばを作っておりますが、今まで生えた事がなかった。ところが裏に出てみたところが、そりゃもう見事なナバがでけておったから、お父さんはよ合楽教会に、これを持って今日はお供えに行って下さいと、家内が申しますので。
今日はナバを持ってお供えに参りましたと言うて、まぁいろいろと合楽にご縁を頂いてからこの方。いわゆる手の平をかえすように家庭中が変わってきて。又は商売は大繁盛のおかげを頂いて、信心のなかった家内がそういう風に、例えばあまりに見事に出来ておるそのナバを見てから、とにかく早う合楽にお供えして来てくれという程しに、おかげを頂いておりますというお話。これは上野先生が昨日研修が済んでから実は、こうこうでしたと言うてお届けを致しております。
昨日お話を御理解の中に申しましたように、宮崎の網さん達が夫婦で、宮崎大分支部結成のおかげを頂いたお礼と、それからそれこそ昨日の御理解じゃないけれども、突発的にビックリするような問題が起きておる。その事の御神意を伺わなければならん、お願いもしなければならない。一日には必ずまた月参りがありますけれども、月参りまで待てないと言うので、丁度前の晩に十時に発ちますからという、道中の事を願うてお参りをしてみえて、昨日は丁度ここで、一通りお届けが終わる頃に参って見えられました。
そしたら昨日お話の中に、あのホテルの行き届いたあのうボ-イさんの話を致しましたね。「小花仙南」ですね。あの小花仙南を頂くんです。それから宮崎に参りました時に、あちらは何というですかあれは、手の平のごたる風なこう蘇鉄じゃない。あっサボテンサボテンね。サボテンね。あのサボテンの山があそこに沢山あるのが有名ですがね。そのサボテンのこの手の平のごたるとに手がついてですね、丁度ごはんをつぐ時の杓文字のような形で頂くんです。
ですからそれはどういうことかと言うと、あの昨日小花仙南という花は、あのう信心させて頂くならば少しは違わなければ。私が宮崎をどこを回りましても、小花仙南が一杯道中に咲いてるんです。良い花じゃないけれどもあまり、家当たりでは全然見かけない花ですから、降りたところ降りたところで聞くんですよ。「此花は何という花か」「さぁ知りません」「私は知りません」という人ばっかりなんです。
それから明くる朝ホテルで朝食の時にボ-イさんが来ましたから、そのボ-イさんに尋ねましたら「暫くお待ち下さい」と言うてから、暫く時間が経ってからですね、ちゃっと紙に書いて、これは小花仙南という花だそうですと言うて、教えてくれました時にね、本当にやっぱり超一流のホテルのボ-イさん達が、勿論そういう教育を受けているんでしょう。お客さんからいろんな質問がある時には、実意丁寧にしかもそれは面倒臭がらずに、必ずお答えするようにしなければいけないと言う様に。
まぁ教育を受けておられるからかどうか知らんけれども、ならお互いこうやって毎日、実意丁寧神信心という教育を受けておるのですけれども、信心しておっても「さぁ知りません」「さぁ何というか知りません」という人が、実は多いのじゃないでしょうかね。だから信心は私は、昨日はその事を研修の時にみんなに申しました。ご信者さん方はいざ知らず、けれどもここでおかげを頂いておる修行生の、あなた方の場合なんかこれが出来なければ行けない。
「はぁなかなか親切なお方と思いよったら、あちらの修行生の方じゃった」と、後から判るくらいなおかげは頂かなければいけないね、と言うて話した事でした。まぁ余談でしたけれども、その小花仙南とその杓文字を頂きましたから、網さんが行き届いた信心をなさるということで、その難儀な問題は、神様が少しじがじがはあるけれどもね、おかげになる、福というお知らせだと思ったから、心配いらんよと言うてまぁ申しました。
それからまぁ風呂にでも入って、一服して帰って貰おうと思うておりましたら、もう西岡先生ところへ行ってから、この頃からの親先生にお出でて頂いたときの感動を、夫婦の人が代わり代わりもうそれこそ涙を流して感動しながら、お話しされたということです。今度親先生が宮崎にお見えるから、あのうお迎えに出るのに洋服を新調しようというて、私が主人に申しましたら、洋服も新調するのはいいけれども、心に錦を持って心に新調した服を着せて頂いて、お迎えさせて頂いた方が親先生が喜びなさるぞと。
と言うて申しましたが、本当に私はもう終わってから、夫婦で帰ってからです、もう本当に親先生にお出でて頂いて、今度は自分のようなものを副支部長にして頂いて、本当にいわば服を福と頂いてあるのですね。副支部長が身に付いたと言うて感動して、喜びましたという話をまた、感動しながら西岡先生に話されたということで御座います。ちょうどその前後して、やはり宮崎の田中ここの田中先生がお母さんに当たります。
電話が掛かって参りました。「今朝から朝の御祈念をさせて頂いておりましたら、夢とも御心眼とも、事実とも分からないような不思議な事があった。もう音だけは確かにあった。もうそれこそ物凄い音がして、御神前に光が落ちてきた」と言うのです。はっとして我に返った時には、「はぁりゃ今のは御心眼だったろうか、私はまた御祈念をしながら寝むっとったのだろうか。
確かにそれでもあの、大きな音だけは本当だった」と、こういう不思議な事が御座いました。私も福岡で修行中の時分にそういうことが御座いました。すばらしい宮崎に一つの、田中先生のところに御比礼が輝く事だろうと私は思いました。まぁ昨日お取次ぎさせて頂いたり、お参りをしてみえたりした方達のお話を、今日は四つ聞いて頂いた訳ですけれども、この中からね私は信心に連れは要らんという。「信心に連れがいれば死ぬるにも連れがいろうが、皆逃げておるぞ」と。
例えば先月。網さんが壮年会に先々月でしたかの月でした。でそのう月参りの一日を、どうせ壮年部会にお参りせんならんからと言うて、月参りをせんでそのう甲斐さんという、こんど支部長ですが、それを変更して婦人大会でしたでしょうか、壮年大会でしたでしょうか、その日にお参りする事を約束したということを、網さんが非常に怒られたそうです。それはそれこれはこれじゃないかと。それをそんな約束をしてと言うて、やはり一日と決めたからには一日にはお参りしなけりゃ出来ない。
昨日も例えばお参りがあったけれども、一日にはまたどうぞお繰り合わせを頂くようにと言う、ここで願うて帰られましたが。そういうそのう今日四人の方達の話を聞いて頂いて、そのうどうしてそういう言うならシャ-プなおかげが、頂けておられるのであるかということであります。神様にその事を今朝ここでこの二十六節を頂いて、そのお話をさせて頂こうと思わせて頂きましたらね、あのう続け字ですかねいわゆる草書又は行書と言う様に、その書いておるところと、楷書に字を書いておるところを頂きました。
はぁこの方達がおかげを受けるのは、それこそ一点一画を大事にして楷書で書いておるからだと思いました。信心が巧者になる。だからその巧者な人の真似をする。そこには続け字で書いた字を真似をする。それではねそういう例えば自分が崩した信心を人に伝えると、それは人は逃げるということです。また逃げなければ行けないと言う事です。まぁ今のお話は信心がみんな、合楽の信心に対する初な人達ばかりです。ですからもう今の武田先生の場合なんかでも、もう全然連れはないのですからね。
一人で参ってくるのですから。だから人の話も聞かない訳なのです。ただここでお話を聞くばかり何です。それでなら自分流の信心だけれども、合楽で頂いたというものだけは絶対な物として、一点一画をまぁそのうまぁぎこちない、言うなら格構はあんまり良くないに致しましても、教えられた通りのことをやっておられる。そこになら体質改善ができる程しのおかげ。今度はまた御普請を思い立たせて頂ける程しのお繰り合わせ。その大山から参って見える一の宮さんと言ったかね、の場合だってそうです。
長年の信心ではあるけれども、合楽にお参りをさせて頂いて信心が、もう言うならば体質が変わったように変わってしまった。そこには長年言うても付いてこなかった家内がおかげを頂くようになり、合楽におかげを頂くのと同時に、一線を引いたように商売大繁盛のおかげを頂いておるというところにです、合楽の信心をねそれこそ全てではないけれども、頂いていく度のものを、それをそのまま一点一画間違わんように、変わっていっておる言うならば、ドライなところがないということです。
ですから皆さんそういう意味において、なら皆さんの周囲に隣にです。ドライな生き方をしておる人が例えばあっても、それはその人の生き方です。そういう時にです、私はそれに連れのうてはいけないということです。私は私の信心。私は私が頂いた合楽の信心。それで一点一画の間違いのない信心をさせて貰うて、一点一画の間違いのない信心を続けていくことです。でおかげを受けられないのは、それを崩してはならないということですね。素晴らしい信心を真似するならいいけれども。
ドライな信心を真似する傾向がお互いの中にあります。何故ッてそれの方が楽ですから。これは本当にそうです。皆さんが一つの字をですね楷書で書きよったのを、草書で書き習うてご覧なさい、もうその次から書く時には、楷書では書きたくないようになるです。こりゃ不思議ですよ。始めの間は楷書で書いておった。ところが草書で書き習うた、行書で書き習うたら、もう次は行書次は草書を書き習うたら、草書で書くように必ずなります。人間というのは。
楽な方へ楽な方へと、書きよか方へ書くようになるです。だから金光様の信心の実意丁寧神信心というのは、そう言う様なところにも、私は頂いていかなければ行けないと思うです。連れは要らんとか、又は人が逃げておるとかということを、今日その四人の、昨日お取次ぎさせて頂いた方達のお話。又はその方達の信心を聞いてもろうて、どうぞ今日の二十六節にぴったりするような、頂き方をして頂きたいと思います。
どうぞ。